イタリアで培われた感性と技術
研壁宣男氏 参照:http://amateur.fashion-gp.com/interview/vol4_surikabe.php
研壁宣男(すりかべのりお)氏は、1999年に自らのブランドである「サポートサーフェス」を設立したデザイナーです。研壁氏のつくる服は、「着ることによって、その品質の良さが実感できる」とも、言われます。自身が「立体感と空気感をつくるイメージで服をつくる」と語る、その服づくりの感性と技術は、長年経験を積んだファッションの国、イタリアで培われたものでした。
桑沢デザイン研究所からイタリアへ
1980年代、日本は空前のDCブランドブームでした。その只中で高校生活を過ごした研壁氏は、ファッションデザイナーの道を志し、デザインを中心として服飾の基本も学べる桑沢デザイン研究所に進学します。
在学中の研壁氏は、毎年のように著名な賞に入賞・入選を果たしています。1年生のときにはオンワードファッション大賞に入選、2年生のときには繊研新聞主催の賞で大賞を、3年生では装苑賞で二位に入賞と、着実に実績を積んでいきました。しかし、その実績とは裏腹に研壁氏は、自分の技術、そしてデザインの方向性などに悩む日々が続いていたといいます。
そのときに出会ったのが、「ロメオ・ジリ」のデザインでした。当時の日本ではDCブランドが最盛期であり、世界でもパリを中心としたロード・モンタナ、ジャン=ポール・ゴルチエなど、デフォルメされたモードが中心。そのなかでイタリア発祥のロメオ・ジリは、リラックス感があり、実用的でモダンなデザインで、研壁氏は大きな衝撃を受けたといいます。
その衝撃は、研壁氏のその後の人生に大きな影響を与えます。彼は「ロメオ・ジリの下で働きたい」という思いだけで、卒業後に、片道航空券でイタリアへと渡ったのです。
無謀な挑戦ではありましたが、なんとか共同経営者である、カルラ・ソッツアーニとの面接に成功。ただ、イタリア語の勉強を勧められ、語学学校に通い2回目の面接での採用でした。
イタリアで学んだこと
日本からの片道切符で、ロメオ・ジリの下で働くという夢を掴んだ研壁氏でしたが、その後共同経営者である、カルラ・ソッツアーニとロメオ・ジリはケンカ別れをしてしまい、研壁氏はカルラ・ソッツアーニと仕事をすることになります。
ロメオ・ジリという憧れのデザイナーは去ってしまいますが、後の彼が語っているように、カルラ・ソッツアーニの下で「NNstudio」というブランドを運営したことが、サポートサーフェスに大きく影響しています。
それは、素材選びから1人で担当し、デザイン画では表現できない「フィット感」や「体型に合った量感」などが洋服の重要な要素だと気づいたこと。そして、それらを表現するには、仮縫いが重要だと認識したことです。
約15年間、イタリアで培われた経験によって研壁氏は、サポートサーフェスの立ち上げ時から、「量感を表現するには立体裁断でものを作っていくしかない」と思っていたと言います。
立体裁断でつくり出される上質なデザイン
3次元である洋服は3次元でつくる
参照:https://www.fashion-press.net/news/77555
サポートサーフェスの服は、ほとんどが立体裁断によって製作されています。それは、イタリア時代に体感した、デザイン画では表現できないものへのこだわりと言えるでしょう。
「いい服とデザイン画は、次元が異なると思うんです。いい服とは空気感やたたずまいのニュアンスにあるから、線では描けない。服のデザインは、全体のボリューム感や微妙なバランスにある。例えば袖のボリュームやボタンの微妙な位置などは、絵よりも仮縫いで決まっていくものだと僕は思う」との言葉の通り、サポートサーフェスでは、一着の服を作る際、トワルで仮縫いをしながら、イメージもアイデアも素材選びも同時進行。「3次元である洋服を、3次元で作り出していく」こと、それが女性の端正なシルエットと、エレガントな佇まいを演出するデザインに結実しているのです。
こだわりを持った服づくり、着る人を考えた服づくり
参照:https://www.fashion-press.net/news/77555
サポートサーフェスのコンセプトは、「人体 (=support: 支持体) と服 (=surface: 表面)との関係を、過去の概念にこだわらず再構築していくこと」。
デザイン画だけにとらわれない、こだわり持った3次元の服づくりを実践することによって、注目されてきた研壁氏。その考え方の根底にあるものは「着る人」を考える精神です。洋服はアートではなく商品であるがゆえに、着る人を思い、製造されるべきだと言います。
デザイナーの独りよがりではない、着る人がワクワクする気持ちを誘う魅力的な服づくりこそが、研壁氏の考える「いい服」なのです。