生き方とファッションデザインから強烈な印象を残し、2022年12月29日に81歳でこの世を去ったヴィヴィアン・ウエストウッド。
ヴィヴィアン・ウエストウッドブランドとファッションフリークを引きつけるオーブマーク誕生の歴史をご紹介します。
ヴィヴィアン・イザベル・スウェアがVivienneWestwood(ヴィヴィアン・ウエストウッド)を立ち上げるまで
出展:渋谷PARCO
「パンクの女王」と言われるヴィヴィアン・ウエストウッドですが、幼い頃は特に尖った幼少期ではなかったようで、普通の女の子として育ちました。
ヴィヴィアン・イザベル・スウェア(のちのヴィヴィアン・ウエストウッド)は1941年4月8日にイングランド チェシャー州で誕生します。
若い頃は美術の教師を目指していて、ウエストミンスター大学に入学し卒業しました。
そんな彼女に転機が訪れるのは再婚がきっかけでした。
大学を卒業したヴィヴィアン・ウエストウッドは1度結婚をして長男が誕生しますが、3年目の1965年に離婚しました。
それから2年、1967年に反体制的政治思想の影響を受け無政府主義政治団体で活動していたアナーキストでありファッションデザイナーのマルコム・マクラーレンと再婚します。その後、次男が誕生します。
Let It Rock(レット イット ロック)の開店
ヴィヴィアン・ウエストウッドの再婚相手、マルコム・マクラーレンはイングランド ロンドン出身で裕福な家庭に育ちます。幼い頃に父親を亡くすのですが、母親がロンドンで服飾を仕事にしている男性と再婚したことと、この父と母親が所有する服飾工場が礎となって自身も自然とファッションデザイナーを目指すようになり、大学卒業後に本格的な活動を始めました。
1970年代のロンドンではヒッピー文化が流行っていて、若者が社会体制や価値観を否定し、自由を求めて脱社会的な行動をとっていた時代でした。
マルコムはアナーキー(無政府主義)な思想があり、そんなヒッピーや流行りを嫌っていて、注目していたのはテディボーイ(不良)スタイルやロカビリーでした。
ヴィヴィアン・ウエストウッドとはファッションに対して似たような思想だったことから意気投合します。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、マルコムからたくさんの刺激を受けます。
2人は1971年にLet It Rock(レット イット ロック)というブランドショップを、ファッションの発信地であるキングズ・ロード430番地にオープンします。
レット イット ロックはフィフティーズと呼ばれる50年代のロックスタイルを中心に打ち出し、過激で革新的なアイテムにたくさんの人が驚きロック好きは熱狂しました。
トレンドだったヒッピーではなく反逆精神を感じるロックや不良にインスパイアされたファッションを打ち出したわけです。
レット イット ロックからセックスへ!
出展:ELLE
翌年1972年に店名を「Too Fast to Live, Too Young to Die(トゥーファストトゥリブ・トゥーヤングトゥダイ)」に変え、バイカースタイルに挑戦します。
ジップやスタッズをたくさん用いたデザインやレザージャケットが多く制作されました。
さらに1974年にお店を「SEX」というなんとも刺激的な店名に変え、過激で挑発的ともいえるフェティッシュでアバンギャルドなファッションアイテムを次々に生み出します。これがファッションに敏感な若者や、上流階級や社会そのものに反抗する労働者階級の若者たちに支持されるようになり、イギリス全土にSEXの名が広がります。
SEX PISTOLS(セックス・ピストルズ)とヴィヴィアン・ウエストウッド
翌年の1975年にマルコムと共にパンク・ロックバンドのセックス・ピストルズのプロデュースを始めます。(マルコムはのちにセックス・ピストルズのマネージャーになっています)実はセックス・ピストルズのメンバーはお店の常連やスタッフだったのです。
その後、SEXはSeditionaries(セディショナリーズ)に名前を変えます。
SeditionariesはThe Act of sedition (治安法)に対する意味を込められています。
エリザベス女王の口に安全ピンが刺された過激なTシャツを見たことがある方は多いかと思いますが、あれこそがセディショナリーズのファッションアイテムです。
こうしてヴィヴィアン・ウエストウッドらはファッションと音楽の融合で、パンクというムーブメントを巻き起こすことに成功しました。
しかし、その一方でファッションの見た目だけに関心を寄せる若者も多く、ヴィヴィアン・ウエストウッドは彼女たちが本当に伝えたいことを理解してくれる人は少ないとも感じていたそうです。
1979年にセックス・ピストルズメンバーのシド・ヴィシャスが亡くなったことによりバンドも解散し、パンクブームも終焉となり、Seditionaries も約半年閉店しました。
World’s end(ワールズ エンド)からヴィヴィアン・ウエストウッドへ
翌1980年、SEXは「World’s end(ワールズ エンド)」に店名を変え、再オープンしました。
このワールズ エンドこそが現在のヴィヴィアン・ウエストウッドの前身で、このあたりから彼女の洋服はイギリスの伝統や歴史をファッションに融合させたものになっていきます。
1981年、ヴィヴィアン・ウエストウッドは4大コレクションとして位置づけされているロンドン・ファッション・ウィークデビューを果たします。
このときのテーマは「パイレーツコレクション」です。
当時のヴィヴィアン・ウエストウッドの過激さがわかる貴重な写真がELLEにありますので、ぜひご覧になってみて下さいね。
ELLE:ヴィヴィアン・ウエストウッド、最も象徴的&反抗的なパンクファッションの瞬間14
このころ、ヴィヴィアン・ウエストウッドはパートナーだったマルコム・マクラーレンとの共同作業を解消しました。
マルコムがいなければヴィヴィアン・ウエストウッドもセックス・ピストルズもこの世に誕生していないはずなので、この2人の出会いは世界を変えたと言っても良い運命的なものです。
1983年にはパリ・コレクションにも参加して、アンダーグラウンドから堂々と表舞台へ進出していきました。
オーブマークはどうやって生まれたの?
ここからのヴィヴィアン・ウエストウッドが生み出すアイテムはヨーロッパの衣装からインスパイアされたものや、イギリス王室をテーマにしたものに変わってきます。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、1985年頃からイギリスを離れてイタリアに渡りました。この頃の彼女は、伝統的で由緒正しい王室に何かこう、未来的なモチーフを取り入れたものをデザインしたいと考えます。
そこで王冠やアイルランドのシンボルであるシャムロック、ウェールズのリーク、スコットランドのアザミなどのシンボルをデザインに取り入れたセーターをデザインします。
王冠の宝石に天体(オーブ)を取り入れ、未来っぽさを出すために土星の輪のような輪っかを付け加えました。
これがヴィヴィアン・ウエストウッドのロゴにもなったオーブ・マークの始まりです。
未来永劫愛されるヴィヴィアン・ウエストウッドのデザインと精神
出展:VOGUE JAPAN
彼女のデザインは、始まりはアバンギャルドなパンクアイテム、ロックテイストでしたが、だんだんと高級感がありエレガントなものへと変わっていきます。
ブランドを分割して、ファーストラインはヴィヴィアン・ウエストウッド ゴールドレーベル、プレタポルテとライセンスはヴィヴィアン・ウエストウッド レッドレーベルとしました。
近年でもよく見かけるアングロマニアは過去のコレクションを復刻したカジュアルラインで1998年から発表されています。
2006年にはファッションデザイナーとしての貢献によってデイム (DAME)の称号を授与されました。デイムはナイトに相当する叙勲を受けた女性に使用する敬称でとても名誉なものです。
ファッションデザイナーとして世界中を虜にしたヴィヴィアン・ウエストウッドですが、環境活動家としても知られています。
彼女の環境活動家としての側面はVOGUEが取り上げています。
VOGUE JAPAN:【追悼】デザイナーであり環境活動家のヴィヴィアン・ウェストウッド──「戦争は地球における最大の“汚染者”」