自らに磨きをかけた女優グレース・ケリーの上品なファッション

グレース・ケリーは、ハリウッド映画の全盛期に活躍した女優です。
26歳で引退し、モナコ公国の大公レ-ニエ3世と結婚した名実ともにシンデレラへの階段を駆け上っていった女性でした。
数々の映画の中で、どんな衣装もエレガントに着こなした、グレース・ケリーのセンスの良さに目を向けてみましょう。

グレース・ケリーの代表的な映画のファッション

グレース・ケリーの身長は169㎝で当時のアメリカ人女性の中では、背が高く、体重は55kg前後を維持し、どんな洋服も品良く着こなす女優でした。
1949年に「父」で舞台女優としてデビューしますが、舞台の出演中にハリウッド映画への誘いがかかり、1951年当時22歳で映画界にデビューしました。
この作品を見た制作者によって、西部劇「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーの相手役に選ばれました。
主演のゲーリー・クーパーがアカデミー主演男優賞を受賞したことがきっかけで、共演のグレース・ケリーが世間の人たちに知られるようになり、この映画が彼女の出世作となりました。

出典:https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-buzz/g30235923/photos-grace-kelly-before-royal-lift1-191230-crfb/?slide=7

1952年「真昼の決闘」の映画衣装は、ラッフルスリーブとペールカラーのドレスが、初々しさを醸し出しています。また、ボンネット帽が印象的です。
1951年~1956年の映画出演でのグレース・ケリーの相手役の主演男優の平均年齢は46歳でした。
20歳以上年上の主演男優が隣にいても、気品と貫禄のある着こなしは見事なものでした。

出典:https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-buzz/g30235923/photos-grace-kelly-before-royal-lift1-191230-crfb/?slide=10

1953年には、ジョン・フォード監督作品でクラーク・ゲイブルと共演した「モガンボ」で、ゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞し、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされています。
「モガンボ」のファッションには、、サファリ・ルックの原点が詰まっています。
カーキ色のサファリジャケットにロングスカートを合わせて、ウエストでギュッと縛ったスタイルは、現代でも十分通用するスタイルです。
この着こなし方にイブ・サンローランが影響を受けたと言われています。

1954年には、「ダイヤルMを廻せ」「裏窓」「喝采」「緑の火エメラルド」「トコリの橋」の、5本の映画に出演しています。

清楚でエレガントな印象のグレースですが、セクシーな一面もあるところに引かれたアルフレッド・ヒッチコック監督が、「ダイヤルMを廻せ」のヒロインに起用して大ヒットしました。
ヒッチコック監督のお気に入りとなり、この映画に出演したことで次回作の「裏窓」にも出演します。

1954年の「ダイヤルMを廻せ」のファッションは、ナイトガウンが印象的です。
暗殺者に襲撃されるシーンで着用した、ホワイトシルクにレースをあしらったタイトな上半身と、プリーツのスカート部分のペールブルーの軽やかなナイトドレスが魅力的です。
また、この映画は室内で展開される作品なので、レッドのドレスとグレーのドレスが、ファッションの中心となりますが、色の対比が情熱と憔悴を上手に演出しています。

「裏窓」のシンプル美を極めたモノトーンドレスの、ほどよく開いた胸元と足もとまで広がったスカートの映画衣装は、天才衣装デザイナーとも言われた、イーディス・ヘッドが手がけたものです。
シンプルでスタイリッシュな美しさを持ち込んだとされ、絶賛されました。

「喝采」の衣装も、イーディス・ヘッドが手がけました。
三角関係にスポットを当てた感動作ですが、劇中で珍しいメガネ姿も披露したグレース・ケリーでしたが、どんなシーンも上品に着こなしています。
「喝采」では、アカデミー賞主演女優賞とNY批評家協会賞女優賞、ゴールデン・グローブ賞女優賞を受賞しています。

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「緑の火エメラルド」の衣装は、南米のコーヒー農園を経営する役どころなので、シンプルなファッションが主流ですが、シャツにフレアパンツ、ブーツ、サングラスの組み合わせがチャーミングです。

1955年には、「泥棒成金」、19561年には「白鳥」「上流社会」に出演しています。
1955年「泥棒成金」のファッションでは、グレース・ケリーは富豪の娘フランセス役で登場し、優美なオーラを放っています。

そして次回作である「上流社会」が最後の映画出演となります。
1956年「上流社会」のファッションは、つばの広い帽子と花柄があしらわれたノーカラーのワンピースが際立ちます。
また、全身をベージュ系で統一されたパンツスタイルは、品のあるグレースのヘアスタイルと似合っています。
極力アクセサリーを付けない装いが、落ち着いた大人の女性を演出しています。
ピンクのツインニットを着ているグレースはとても可愛らしく、まるで少女のようです。
「上流社会」で着用のホルターネックでシックなワンピースタイプのスイムウェアは、エレガンスでありならもキュートさがあり、何を着ても品の良さが際立ちます。

*モナコ公妃になる前、女優として最後の晴れ姿を見せたアカデミー賞授賞式では、フラワーのアップリケが施されたロマンチックドレスを着用しています。
シルクのストールをプラスし、肌の露出を抑えている、このドレスは、ヘレン・ローズによるデザインでしたが、のちに彼女のウエディングドレスも手掛けることとなります。

グレース・ケリーの生涯

1929年アメリカで生まれたグレース・ケリーは、4人兄弟の3番目で、姉と兄、妹がいます。
レンガ職人だった父親が、オリンピックのボート競技でメダルを獲得したのをきっかけに、一代で財を成し大富豪となります。
兄も1956年のメルボルンオリンピックにボート競技でメダルを獲得するという、スポーツ一家でした。
母親は大学の講師とモデルをしており、グレース・ケリーは他の兄弟たちと比べると目立たなかったため、両親の愛情はそれほど与えられなかったようですが、礼儀作法や決断力、競争心の大切さについては教えられたと言われています。
12歳の時に地元のアマチュア劇団に入団して、18歳の頃父親の反対を押し切って、単身ニューヨークの演劇学校へ進みます。在学中にモデルとしての活動を開始し、20歳になるとプロの女優として舞台に出演、その後、ブロードウェイでデビューを果たします。
1955年に開催されたカンヌ映画祭で、モナコ大公であるレーニエ三世と出会い、1956年にサン・ニコラ大教会で盛大な結婚式を上げることになります。
レーニエ大公との間には、1男2女をもうけています。
モナコ公妃となってからは、植物好きな彼女は、押し花アーティストとして活躍し、日本にも来日します。
しかし、1982年7月14日にモナコ市内での自動車事故という悲劇の最後を迎えてしまいました。享年52歳でした。

グレース・ケリーの素顔とケリー語録

幼い頃から変わらない、おでこをしっかりと出した流れるようなヘアスタイルは、知的な女性のイメージを与えます。
大人になってからのメイクは、ナチュラルでありながら、目元や口元ははっきりと描いていて、芯の強さがアピールされています。
清楚でエレガントな印象のグレースですが、セクシーな一面もあるところに引かれたアルフレッド・ヒッチコック監督は、グレース・ケリーを「雪をかぶった噴火山」であると形容し、「セクシャル・エレガンス」と称しています。
彼女は、ヒッチコックと一緒にNYのカルティエのブティックを訪れた際に、デザイナーのアルフレッド・デュランテと知り合って以来、生涯カルティエのファンになります。
レーニエ3世大公は、グレース公妃に結婚式当日、64カラットの三連のダイヤのネックレスをプレゼントしましたが、やはりカルティエの作品でした。
そのネックレスは、プラチナにラウンドのエメラルドカットのダイヤモンドがセットされた素晴らしいものでした。

ケリー語録

美貌と演技力で世界に名をはせたゆえに、同性からの嫉妬もあったようですが、彼女は屈しませんでした。
まだ、女性の活躍が珍しかった時代に、少女時代から自分でお金を稼ぎ、夢を次々に達成していった彼女は、秘めた信念の強さがあったようです。
それを表す語録をお届けします。

・内に秘めている何かがないと、私の人生は、ただの雑誌のレイアウトの一部になってしまう。

・外見だけに気をつかう、美しいだけの女性になるのはごめんよ。

・私は過去を振り返らないようにしています。後悔よりもいい思い出を好みます。

・女性はやると決めたらなんだってできる。

・自分の直感や第一印象を信じて!

自分を貫いた強さを持つ女性グレース・ケリー

1950年代はウエストをマークした着こなしが主流で、スタイルのキープが大前提だったこの時代、ウエストを強調させるため、引き算のおしゃれが得意なグレース・ケリーは、映画衣装にも自分の考えを反映させています。
トップと言われる女優さんは、自分がいかに美しく見せることができるかを、絶えず研究しています。
ファッションに妥協を許さない生き方が、彼女の生き方そのものともいえます。