皆さんは「ファッション」なるものを、どのようにとらえていますか? これは様々なキーワードから謎多き「ファッション」を紐解いていく連載です。
ファッションでアイデンティティをどう表現するか
ファッションは自分らしさを表現するツール。私もそう思っているのですが、どうも話はそう簡単なものではないようです。今回はファッションとアイデンティティの関係性について、深く考察していきます。
「好きな服を着ると周りから浮いてしまうかも」「ダサいと思われたくない」……みんな一度は考えたことがあるはずの、この悩み。ファッションは自分だけの問題ではなく、他者の視線が必ず介在しています。社会において自分をどう位置づけるかを決めるのも、ファッションの大きな役割なのです。

(出典:DOMANI)
服には暑さ寒さをしのぎ、汗を吸う、直射日光を避けるなどの身体を守るはたらきが第一義にあります。でも、身体保護を目的とするならば、どうしてみんな前述したような悩みを抱えながら生きなければならないのでしょうか? それには、服装の第二の役割――つまり、自分がどの集団に帰属していて、職業や社会的な地位、果ては趣味などを自他ともに知らしめるはたらきが関係しているのです。
人類学者のターナー(1935-2015)は、人間はいかなる社会においても、それぞれの社会的概念にしたがって、自身を装飾したり、覆い隠したり、変化させることに関心を抱いていること、そしてそこから身体の表面が生物学的・心理学的実体としての個人の境界としてだけではなく、社会的自己の境界線も意識していることを論じました。服装や身体の装飾は、文化的媒体のひとつであり、個人的・社会的アイデンティティの形成と伝達において、おそらくもっとも特化したものであろう……と述べています(Turner 1980)。わかりやすく言うと、どんな社会でも身体加工(ピアス、刺青など)や服装による社会的自己表現が発生するし、それは単に自分がしたいから、興味があるから、というわけではなく社会的な制約の中で行われるものである、ということですね。

(出典:Instagram)
そもそもアイデンティティとは、自分が過去から現在にかけて「自分であること」を知覚し、さらにはそうした自分が他者や社会から認められており、その認められていることも自分が知覚している、ということなのだとされています(エリクソン 1959)。もともとは精神分析の世界での用語でしたが、これを応用して、コミュニケーションの媒体としての服装がアイデンティティとどう関係しているか、という研究がのちに行われるようになりました。『装いとアイデンティティ』という論集によれば、装い(着飾ること)を、身体の改造と身体の補い(身にまとうこと)を包括するものととらえながら、それが社会的なコミュニケーションの手段として機能すること、そして自己と他者のアイデンティティを確立することに影響を及ぼしていることが明らかにされています。一人の人間の自己は、親族関係、経済、宗教、政治活動などを組織する社会構造の中で、不可抗力的にあてがわれたり、意図的に獲得したりしたポジションに基づき、アイデンティティと結びつきます。そのアイデンティティを示すための自己の装いが、周囲の予想する反応と食い違っていなければ、互いに満足のいくコミュニケーションが図られた証となります。逆に、着用者の思惑と異なる反応が出た場合は、社会的なコミュニケーションが困難になったり、隔絶したりするのです(Roach-Higgins et al. 1995)。通常我々は、ファッションを通じて表現されるアイデンティティが他者に誤解なく伝わるように、何を着るのか選んでいるのです。日本の思想家・鷲田清一などが提唱している身体論的に言えば、「わずかな差異の中に他人とは異なった自分を表現するように」(鷲田 1989)ファッションとは他者との違い(差異化)と同じにすること(同一化)の繰り返しでもあるのです。

(出典:楽天市場)
アイデンティティには、個人を他者との連続性の中に位置づけ、個人を超えた想像の全体へと結びつける側面もあります。異民族・異国の人といった、まぎれもない他者を目の前にしたとき、それを可視化するために新たな服装が選択・創造される、という現象も起こります。
インドのサリーという伝統的な服装は、インド独立時に洋装に対してインドの独自性を主張すると同時に、国内の地域のカースト、宗教といった人々の多様な出自を覆い隠し、「均質な国民」を演出するアイテムとして新たに選択・採用されました(小林 1999)。韓国においては、日本の植民地支配下で洋装に向かいつつも、日本を通じて接する「近代」への抵抗として民族衣装であるチマ・チョゴリが再評価され、現代にかけても外部に向けて示される伝統文化、民族文化のシンボルとなっています(岡田 1999)。モンゴルでは近年、遊牧に適した伝統服であるデールが、都市部でおしゃれな晴れ着となるプロセスを経ながら、反中国ナショナリズムの高まりと相まって、自己のナショナルアイデンティティ確立の模索を反映するものとなっています(島村 2017)。こうして民族の同一化のために、あえて個人の個性を覆い隠すことがポジティブにとらえられることもあるのです。
私はこう見る!
誰もが考えるこのアイデンティティと服装の課題。「なんで学校には制服があるの?」「就活のときのリクルートスーツが窮屈」など、様々なネガティブな感情を持つこともあるかと思います。でも、人為的な区切りが無いと、それはそれで不安になる。そういうこともあるでしょう。私が大学時代に勉強した日本語学の授業では、「シューカツスタイル」はいかにして生まれたか、という内容で講義が行われたこともありました。そのときの結論は、「就活をしている人だと明らかにわかるように、あえて没個性化しているのではないか」ということになったのですが、まさにこの民族衣装だとかと同じで、「私は新社会人です」と広く示すことで、社会の一員になる、イニシエーションの側面もあるのではないかとも思うのです。かつては大人になるときに抜歯していたということもありますし、一度所属する集団から外見を変えられることは不可避なのでしょう。
また、幼少期は何を着るのか親に決められていて、それが嫌だった、という人も多いのではないでしょうか。私もそのひとりだったのですが、それは親の指向するものをただ着るだけの存在から「自我が芽生えた」ということでもあるのではないでしょうか。そうやって大人になっていくにつれて、自分が本当に所属したい集団、見られたい自己像というものが確立されていくのだろうと私は考えています。一度自分が、「周りからどう見られたいのか」という視点で服装選びを考えてみるのもいいかもしれませんね。自分の表現するものは一体何なのか、明らかになるかも。
ファッションについて考察していくコラム、今回はここまでです。
(参考文献:「クリティカルワード ファッションスタディーズ 私と社会と衣服の関係」2022年、フィルムアート社)
ライティング:長島諒子