皆さんは「ファッション」なるものを、どのようにとらえていますか? これは様々なキーワードから謎多き「ファッション」を紐解いていく連載です。
避けては通れない、「ジェンダー」の問題
21世紀の現代日本で、スカートを穿いている人がいたとします。皆さんはそこからきっと、「ああ女性なのだな」と認識するかと思います。でも世の中には心の性と体の性が一致しなかったり、性の認識が男性/女性に分けられなかったりする人もいます。そういう人たちと、ファッションの関係性について迫ります。

(出典:東京新聞 トランスジェンダーのカップル)
ファッションはジェンダー記号として機能する――衣服は、多くの社会で着用者の性別を表す役割があります。それは特定のアイテム(服飾品)を特定のジェンダーに結びつける規範が存在しているからです。そしてその規範は、その人の一生涯を男性か女性かのふたつ、どちらかに固定してしまうことが多いです(これを男女二元論、と呼びます)。ボタンホールの左右の違いが男女の服の違い、というのはよく知られていますが、これも立派なジェンダー規範です。ジェンダー規範というのは、「一般に女性は男性よりも明るく淡い色の衣服を着用するものだ」などの、性別をその社会の文脈の中で仮定して、そこから推論される事柄を指します。これが今なぜ問題なのか、というのは前述した通り、「トランスジェンダー」「ノンバイナリー」と呼ばれるマイノリティの人々を排除してしまうことにつながり、マジョリティとの権力関係を反映しているからです。また、ジェンダーのアンバランスさ、間違いを正そうとするフェミニズムの観点から批判されることもあります。もちろん人の性別は衣服のみで判断されるわけではありません。髪やひげ、化粧、骨格、身振り、声……様々な身体上の性質が、ジェンダーを表す強力な記号になります。身体も衣服も、ジェンダーを規定するものになるのですが、今回特に衣服に注目する理由は「可塑性が高いから」です。服装次第で着ている人は男っぽくも女っぽくもなりうる、という意味です。別にホルモン治療をしなくても、着るもので手軽に変えられるのが衣服によるジェンダーなのです。
ファッションに関する社会のジェンダー規範が変われば、同じシルエットやモチーフ、色合いでも、示されるジェンダーは変わります。服飾史上では18世紀末の西ヨーロッパがその顕著な例で、男性服が華やかな色合いで装飾をたくさん施すものから、黒やグレーなどの禁欲的でシンプルなスーツへと収束した現象があります。イギリスの精神分析家フリューゲル(1884-1955)は1930年に出版した『衣服の心理学』という本で、この現象を「男性の大いなる放棄」と呼びました。男性がきらびやかな装いや美しく見られたいという要求を女性に手渡した出来事なのだとしています(Frugel 1930)。ヨーロッパではフリルやレースをあしらったシャツに高いヒールの靴をあわせた男性服もルイ14世の頃などにはありましたが、それは近代以降女性の象徴になったのです。これが、時代による社会のジェンダー規範が変わった、ということなのです。

(出典:Amazon.com)
他にもこんな例があります。西洋近代化した社会においては、スカートは女性の象徴で、公衆トイレのピクトグラムにもスカート姿の女性が描かれますが、歴史をひもとくと、スカートは多様なかたちで男性服として身につけられてきました。下半身の部分がふたまたに分岐しない形の服であれば、古代ローマのトーガ、ヒンドゥー教徒の男性が着用するドーティ、日本で言えば着流しもそれにあたります。実は現代の男性服の主流である、足全体を覆うフルレングスパンツ(丈が足首まであるパンツ)は、洗濯機のない時代では簡単に洗濯できないから不衛生だし、着心地も通気性も悪い! と非難されることもあったそうなのです。1985年のゴルチエの秋冬コレクションでも、スカート着用でランウェイに立った男性もいました。
でも、今は21世紀。男性が、特に政治的・経済的な意思決定など公的な場面でスカートを穿くことはふさわしくない、とみなされがちです。ドラァグのように意図的に女性性を打ち出す男性もいますが、それも異端視されてしまう背景には「男性は女性のようにふるまうべきではない」という社会のジェンダー規範が存在していることの裏返しでもあります。これは女性の服装としてパンツルックが定着したのとは違う道をたどっていることの証左ですが、女性のものとされる役割や文化が過小評価されていることも、ひとつ原因にあると考えられます。
その逆のパターンで、コルセットやハイヒールなどの動きを制限する服装が女性性を象徴する場合もありますね。これには「そんな格好をする女性が悪い」という女性蔑視も含まれていたこともあって、ファッションと女性の抑圧には関係性があると言わざるを得ないでしょう。
そもそも、男性用・女性用で分ける必要はあるのか? という疑問さえ湧いてきます。女性のような体つきの男性、男性のようなスタイルの女性、そしてノンバイナリーの人々……現代の服飾業界で、こうした存在に寄り添って「男性用」「女性用」を分けて販売するのは、もう古いのかもしれません。

(出典:BAZAAR)
私はこう見る!
私の知り合いには、女装をする男性が結構います。別に女性になりたいとかそういうことではなく、純粋にファッションとして女装を楽しんでいる、とのことでした。男性でも女性ものの服を着て、メイクもして、写真を撮ってSNSに掲載している人もいます。逆に女性でも男性服を着て、カッコいい女性像(あるいは中性的な自分像)を打ち立てている人もいます。どちらも「自分の性別をどうこうしたいわけではない」というご意見が共通していて、もはや男女のくくりはファッションの最先端において無意味になっているのかもしれません。男性でも女性の服を着ていい、その逆もしかり、という風潮が若い世代の間では共通認識になっているのですが、世代が少し上になると「何でそんなことをするの?」と白い目で見られることもあるそうです。ジェンダー規範が機能しなくなるとそれはそれで問題が発生するのかもしれませんが、現代ではそんな「男女の役割」も超越していきたいという若い世代が多いように感じます。
ジェンダー規範にとらわれすぎて、「女だから」「男だから」と自分を縛るのも、もう古いのではないでしょうか。男性優位の社会を構成する一端が男女二元論にあるのであれば、それは不要なものだと私は思います。女性でも男性でも、服装は「自分に合っていればそれでいい」と思えたらきっともっと自由だと思うのです。「~~しなきゃいけない」「こうあらねばならない」という規範を押しつけるのはやめにして、自分のしたいように生きていくためのツールとしてファッションを武器にしていけたら、幸せなのではないか、と考えています。
ファッションについて考察していくコラム、今回はここまでです。
(参考文献:「クリティカルワード ファッションスタディーズ 私と社会と衣服の関係」2022年、フィルムアート社)
ライティング:長島諒子