今だからこそ日本を誇りに感じよう!実は日本発・日本人デザイナーの「衣」

私たちの国日本は、世界に誇れるものづくりの国です。
しかし、近年は少子高齢化であったり様々な産業が世界に後れをとったりと、国力低下を感じざるを得ないニュースが多いことを皆様も実感していることでしょう。

こういった現状がある理由のひとつには、多くの大企業がコスト削減の目的から安い労働力を求めて国内生産を離れてしまったことがあげられるのではないでしょうか。
決してマイナスなことばかりではないのですが、本来は日本の技術だったものがいつの間にかアジアでも同じようなことができるようになり、トップ水準を誇れなくなってしまったことは明らかです。

いまだからこそ私たちは日本のものづくりの素晴らしさを知る必要があります。
ここでは、実は日本人デザイナーが制作した「衣」をご紹介していきますので、ぜひ日本人のアイデンティティを再確認してみて下さい。

 

あの「レーザー・レーサー」をデザインした川久保玲


出展:CDG FREAK
川久保玲といえば、誰もが知るCOMME des GARCONS(コム・デ・ギャルソン)のファッションデザイナーですよね。
川久保玲は1981年に初めてパリコレに参加して、独創的なデザインから世界に注目されるようになりました。1987年のパリコレでは、専門記者による投票で1位を獲得しています。これは森英恵、高田賢三、三宅一生などの先輩にあたるデザイナーも果たしていない快挙です。

川久保玲は、2008年オリンピック北京大会で着用するための水着「レーザー・レーサー」のデザインも担当しています。

レーザー・レーサーを製造するイギリスのスピード社とコム・デ・ギャルソンは以前から業務提携をしていたことから、川久保玲がレーザー・レーサーのデザインを担当することになったのです。

この時彼女は「水着をファッションのようにする必要はない。水泳選手の肉体はトレーニングや努力によりすでにデザインされたものだからだ」と語っています。
デザインには書家の井上有一が書いた「心」という文字を取り入れました。

北京オリンピックではレーザー・レーサーを着用した世界の名だたる水泳選手が記録更新とメダルを獲得したことはご存じのとおりです。北京オリンピックで2冠を達成した北島康介選手もレーザー・レーサーを着用していました。
川久保玲は、世界のスポーツ界、ファッション界の両方から非常に高い評価を受けました。

 

スポーツ・ファッション界でも燦然と輝く石岡瑛子


出展:映画.com

同じく2008年北京オリンピックの開会式で、式全体の衣装をデザインしたのは日本人デザイナーの石岡瑛子です。
中国と日本は国や政治レベルでは親しい関係性とは言えません。それでも石岡瑛子が選ばれたということは、彼女がどれだけ世界的に認められたデザイナーであるかということがわかりますね。

石岡瑛子は東京芸術大学を卒業して資生堂の宣伝部に勤務しました。まだまだ女性が社会的地位を得るのは難しい時代です。1970年代にはグラフィックデザイナーとして活躍し、資生堂、パルコ、角川書店などの企業キャンペーンを成功させています。
1980年代にはニューヨークに活動の拠点を移し、映像、映画、演劇、オペラ、サーカスなどの幅広い分野でデザインを手掛けてたくさんの国際的な賞を受賞しています。

2002年の冬季オリンピック・ソルトレイクシティ大会で、スイスやカナダチームの一部競技のユニフォームもデザインしています。
ユニフォームのデザインは、オリンピックを観覧するわたしたちの楽しみでもあります。
そこに日本人デザイナーの仕事があると考えると、とても誇らしくなりませんか?

 

アメリカ コリン・パウエル氏が愛した川崎和夫デザインの眼鏡

2021年10月に亡くなられたコリン・パウエル氏(パウエル元国務長官)は川崎和夫デザインの眼鏡を愛用していました。
コリン・パウエル氏は黒人としてはじめて国務長官となり、数々のアメリカ外交を成功させてきた存在です。

また、元アラスカ州知事のサラ・ペイリン氏も川崎和夫デザインの眼鏡を愛用していることで知られています。

出展:ペイリンさん(アメリカ副大統領候補)ご愛用メガネは川崎 和男デザイン♪

川崎和夫は眼鏡の産地として知られる福井県出身の工業デザイナーです。
バランスの良い眼鏡を研究して、レンズを固定するためのネジを使わない眼鏡を開発するなど大変な努力を重ねてきました。シンプルかつスマートなデザインの眼鏡は、福井県の眼鏡産業の発展にも貢献しています。

これらの功績が認められて、2000年には眼鏡業界で最も権威のあるフランスの国際眼鏡展示会「シルモ展」でグランプリを獲得しています。

また、川崎和夫はデザインディレクター、博士(医学)、大阪大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授などの肩書もあり、グッドデザイン賞審査委員長も歴任しています。

 

「ビーサン」も草履が原型!


夏にはビーサンが欠かせないという方も多いと思いますが、ビーチサンダルが誕生したのも実は日本なんです。
昔、日本では着物と草履というスタイルが一般的で、洋服を着るようになったのは明治維新以降のことです。そのため、モノづくりの文化において靴作りの歴史は浅いのです。

ビーチサンダルの誕生は第二次世界大戦後の1951年に、レイ・パスティンというアメリカ人男性が日本人の草履を見て、これをゴムで作ったらもっと履きやすくなるしアメリカでも売れるのでは?と考えたのがきっかけです。
このアイディアに賛同して開発に取り組んだのが、神戸で内外ゴムという会社を営んでいた生田正太郎です。
生田正太郎は戦時中にアメリカ爆撃機の燃料タンクの研究を行っていて、銃弾を浴びても破れることがない独立気泡スポンジという特殊なゴムの開発に成功しています。この技術を応用して作られたのが記念すべき最初のビーチサンダルとなる「ビーチウォーク」でした。
このビーチウォークをハワイで販売したところ、レイ・パスティンの目論見どおり、たったの1か月間で10万足も売れたと言われています。

ちなみに、日本の草履は左右同じ形をしていますが、ビーチサンダルは左右違う形ですよね。これはレイ・パスティンのアメリカ人的発想だと言われています。

日本の靴産業は幕末頃に始まりました。江戸幕府は兵士などを除いた一般人に西洋の靴を履くことを禁止していたのですが、江戸時代の終わりごろにはこの禁止令の効力も薄くなってきて、洋服と靴というファッションが貿易商などを中心に広まっていきます。
1869年(明治2年)には天皇家が洋服を採用されて、東京 京橋のトモエヤが外国製の靴販売を始めました。
1872年には宮中での正服が洋装と決められ、政府高官、上流階級の人々が靴をオーダーメイドするという流れが生まれました。
また、1880年にはイギリスでスポーツ用の靴として底がゴムの靴が登場しています。これが現在のスニーカーの原型です。

靴を履き始めた時代が欧米よりも遅かったことから開発も遅れていた日本ですが、現在は違います。
WBCで大活躍した大谷翔平選手は、スパイクなどは日本メーカーのアシックス、ウェアはデサントと契約していました。(2023年2月よりアメリカニューバランスへ契約変更)
また、イチロー選手もアシックス製やワールドウィング社(鳥取県鳥取市)のビモロシューズのスパイクを履いていましたね。

 

日本の良さを見直してみませんか?

ファッションや「衣」においても日本が世界に誇れる産業があることがおわかりいただけたのではないでしょうか?
これからの時代を作る世代の方にも、ぜひ日本という国を誇りに感じていただきたいと願います。