【vol.3】グッチ暗殺事件の真相!「ハウス・オブ・グッチ」につながるあの事件を解説


vol.2ではマウリツィオ・グッチを殺害した犯人がついに逮捕され、裁判を経て服役することとなりました。

一方、暗殺事件という悲劇に見舞われて大きな傷を負ったグッチというブランドはスキャンダルにも見舞われ、かつての名声を失うこととなりました。
vol3の今回は、グッチ一族から見た一連の事件について触れていきます。

Vol1からご覧になってみて下さいね。

【vol.1】グッチ暗殺事件の真相!「ハウス・オブ・グッチ」につながるあの事件を解説

注目すべきはパトリシア・グッチ


左:パトリシア・グッチ
右:アルド・グッチ
出展:COURRIER

パトリシア・グッチはグッチの2代目社長であるアルド・グッチの娘です。パオロたちとは年齢が離れていて異母兄弟にあたります。
パトリシアは幼い頃からグッチ一族の経営権争いを見ながら育ってきました。
彼女は後のインタビューで「私はただただ、グッチと関わるのが嫌でした」と語っています。

 

グッチ・アメリカの取締役に就任

パトリシアは若くしてニューヨークにわたり、グッチ・アメリカの取締役に就任します。1982年のことです。この当時、グッチというブランドはまだ彼女の誇りでした。

ニューヨーク5番街のグッチの店舗は4階建て。最高の顧客にはゴールドキーがわたされて、最上階にあるVIPルームにエレベーターで上がる造りになっていました
VIPルームには豪華なギャラリーがあり、イタリアを代表する芸術家のモディリアーニやキリコなどの貴重な絵画が飾られていました。VIP客はシャンパンを飲みながらグッチのバッグやジュエリーを眺めるのです。
まさに最高級の気分を味わえたわけですね。

 

アルド・グッチの退陣劇

しかし、パトリシアはグッチ・アメリカの取締役に就任したそのたった2年後に、マウリツィオらによる策略によって父アルド・グッチが社長から退陣させられる様を目の当たりにすることになります。

アルドは家族が大好きで、ファミリービジネスがいつまでも続くことを願っていて、パオロら息子たちが自分を裏切るとはこれっぽっちも考えていなかったそうです。
アルドは周囲の人間に「頼む、私を支援してくれ。会社を守らせてくれ」と懇願したそうですが、全ての人たちに裏切られることになります。
アルドらは経営から追放されました。当時20代のパトリシアも、地位と名声だけでなく家族や仲間、信頼していた人間も失うこととなりました。

さらに、経営悪化によってマウリツィオがグッチの株を手放したことで、グッチ一族はグッチブランドの経営から完全に退くことになります。
グッチ社からは、グッチ一族が「グッチ」の名を使ってビジネスを行ったり、グッチ家のブランドという宣伝を一切行ってはいけないと禁止されてしまいます。

20代で経験してしまった深い喪失感は、パトリシアの心に傷を残すこととなりました。
そして1990年に父アルドを亡くし、辛い日々を送ることになります。

 

AVITEUR設立

決して順風満帆だったわけではなかったパトリシアでしたが、騒動から約20年後にAVITEURというスーツケースブランドを立ち上げます。

それは彼女が空港にいたときのこと。人々が手にしているバッグは高級ブランドのものばかりなのに、スーツケースはなんの個性もない布や合成樹脂のシンプルなものが多くアンバランスに感じたのだそうです。
このときパトリシアはこう考えました。
「なぜスーツケースを素敵にする人がいないのか?だったら驚くほど美しく、他にはない豪華なものを作ってみよう。」
彼女は上質な革を使ったグッチの製品を再興したいと願ったのです。

ここからパトリシアはイタリアの職人技が生み出す精巧な仕上げと、家業でもあった革製品を活かした大変洗練されたデザインのスーツケースを販売するに至りました。
もちろんこのビジネスもグッチを名乗ることはできないので、旧知の職人に声をかけてゼロから立ち上げたものでした。

 

パトリシアから見たグッチとは?

パトリシアはグッチの繁栄と衰退、一族に起きた悲劇をこう振り返ります。

「私は幸運なことに20歳そこそこでグッチで働くことができ、なんてすばらしいことだろうと、とても明るい未来が見えていました。
 
ところが、一瞬にして全ての地獄が襲い掛かってきました。
 
グッチには家族みんなのための十分な富とブランド価値がありチャンスがあったのに、一族が手を携えることをしなかったから起きた悲劇なのです。
結局は強欲ですよ。当時私はとても若く、自分の足で自分というものを見つけなければなりませんでした。それは長い道のりでした。」

 

一族が去ったあとのグッチブランド

グッチ一族が経営から手を引いた後のグッチブランドはどうなったのかというと、今でも世界中で愛されていることは誰もが知るとおりです。

マウリツィオが株を流通会社Pinault-Printemps-Redoute(PPR)に売却したのが2004年のこと。これ以降、グッチ・グループはグッチ家の手を離れることになります。
それから、2013年にはPPRが組織改編によってケリングに改称され、グッチのブランド事業もケリングに引き継がれました。

それでもグッチが大好きというイタリア人は本当にたくさんいます。
どんなことがあっても前進していく、世界に輝き続けるブランドであるグッチはイタリアの人々にとって誇りなのかもしれません。

 

悲しい事件は繰り返してはならない

マウリツィオの元妻パトリツィアの策もあって、グッチの社長に上り詰めたマウリツィオでしたが、結局は経営の才能がなかったのでしょう。
結果的にグッチ一族が築いてきたブランドを売り渡すことになり、ファミリービジネスを崩壊させ、一族は経営から追放されることになってしまったのですから。

マウリツィオと結婚した後のパトリツィアは、グッチファミリーの女帝のようなふるまいが目立つようになりました。例えば、デザインの才能がないにも関わらずオリジナルデザインのバッグを制作・販売するなど、目に余る行為ばかりが散見したのだとか。(当然売れ行きは悪かったようです)
マウリツィオもパトリツィアが自分と結婚したのは愛ではなく財産やグッチというブランドであると気が付いたのでしょう。
こういったことに嫌気がさして、マウリツィオはパトリツィアと別居・離婚をするのですが、しかしもう歯車を止めることは誰にもできずに、パトリツィアによるマウリツィオ暗殺という悲しい事件が起こってしまいました。

これらの一連の事件は、リドリー・スコット監督、レディーガガ主演で「ハウス・オブ・グッチ」というタイトルで映画化されています。
映像で見てみたいという方はぜひご覧になってみて下さい。