前回ご紹介した「日本人があまり知らないBALENCIAGA(バレンシアガ)のこと」はご覧になっていただけましたか?
今回のVol2では、バレンシアガのデザイナーで創業者であるクリストバル・バレンシアガの人物像を深く探ってみます。
ますますバレンシアガを好きになること間違いなしですよ!
1914年~1972年に活躍したクリストバル・バレンシアガ
出展:THE RAKE
ブランド創業者のクリストバル・バレンシアガは1914年にファッションブランドのバレンシアガを立ち上げます。オートクチュール店としてスペインで開業したのが今に至るバレンシアガの始まりです。
幼少期から母親の仕事に触れてきたということもありますが、非常に才能あふれるデザイナーだったことからバレンシアガはスペイン王室御用達にまで大成長します。
しかし、1936年にスペイン内戦が勃発して、スペインにある店舗も影響を受けてしまったことから、彼はスペインを離れて1937年8月にフランスに新たなブティックを開店させることになります。
現在のバレンシアガは「フランスのハイブランド」という位置付けかと思いますが、当初はスペインで開業して戦争をきっかけにフランスに移転して世界的なブランドへと拡大していったのです。
クリスチャン・ディオールとクリストバル・バレンシアガ
クリストバル・バレンシアガが活躍した1950年~1960年代は、スターデザイナーのクリスチャン・ディオールが活躍した時代でもあります。
ディオールは1947年に「ニュールック」と呼ばれる革命的なデザインを発表します。
出展:ディオール「ニュールック革命」展、仏グランビルで開催
コルセットでキュっと絞ったウエストに細身の肩のラインとウエストからふんわりと膨らむフレアスカートは、とても女性らしいAラインで瞬く間に大人気となります。
今見ても本当に素晴らしいと感じるのは筆者だけではないでしょう。
これに対して、バレンシアガは非常に対照的となるゆったりとしたデザインを得意としました。
「日本人があまり知らないBALENCIAGA(バレンシアガ)のこと」でご紹介した「チュニック・スタイル(チュニックドレス)」「サックドレス」「バレル・ライン」がその例ですね。
出展:High-Brands.com
妥協を許さなかったバレンシアガ
ファッションデザイナーというと、派手なことが好きとか華やかな印象があるかもしれませんが、考えてみるとクリストバル・バレンシアガはシャネルやディオールほど個人としては知られていないと思いませんか?
バレンシアガの性格は非常にまじめで、デザイン、ファッションにおいては妥協を許さず、完璧を追い求める人物だったそうです。
ショーでも表舞台に出て挨拶をすることもほとんどなく、裏方として見守ることがほとんどだったと言われています。こういう硬派なところも魅力のひとつだったのでしょう。
彼が妥協を許さない性格であったというエピソードに、1日の間に120回もの仮縫いを自分で行って、服だけでなく小物まで自分で仕立ててコレクションに備えたというものがあります。
また、「彼だけがデザイン、型紙の作成、縫製の全ての工程を1人でできる本当のクチュリエだ」と絶賛した言葉もあるのですが、こう言って彼を褒めたたえたのはなんとココ・シャネルなんです。
プロデューサー、ビジネスマンとしては・・・
クリストバル・バレンシアガはデザイナーとしては一流を超える一流の腕があり、それはディオールも認めるところでしたが、ブランドを拡充するプロデューサーという点では二の足を踏むようなところもありました。
オートクチュールから始まってプレタポルテにも興味を持ち、当時の最先端であったアメリカの機械・技術を自分の目で見学したのですが、そこで彼は機械では自分の服は再現できないと判断して既製服のビジネス化を諦めました。
対して人気を二分していたディオールはアメリカでプレタポルテ部門を立ち上げて成功しています。ブランドを商品として拡充するプロデューサーとしての手腕に長けていたのはディオールだったのですね。
職人肌で我が道をコツコツ歩むタイプのバレンシアガでしたが、彼にはバレンシアガ本人とデザインに惚れ込んだ一流の顧客がたくさんついていたので、他の有名ブランドに負けないほどの売り上げを誇っていたそうですよ。
これもまたすごいエピソードですね!
クリストバル・バレンシアガ以降のバレンシアガブランド
1972年に創業者のクリストバル・バレンシアガが亡くなるのですが、その後のバレンシアガは低迷期を迎えることになります。
この後のバレンシアガは、クリストバルの甥である人物が預かることになりました。
しかし1986年までは新作の発表はなく、ただブランドとして存続し続けるのみとなり一時的にはブランド継続が危ぶまれたこともありました。
やはり、ハイブランド、ラグジュアリーブランドというのはデザイナーやブランドが持つイメージが非常に大切であり、バレンシアガも創業者の名前が冠となっているので、創業デザイナーが不在となってしまったらブランドそのものの価値が下がるということなのでしょう。
シャネルが称えたようにバレンシアガは1人でなんでもこなすクチュリエでもありましたし、彼の引退と死去によって経営難に傾いてしまうことも仕方のないことです。
それからバレンシアガには4人のデザイナーが関わることになり、現在のラグジュアリーストリートの先駆けとなるブランドに変貌を遂げることになるのですが、この4人のデザイナーについてはVol3でたっぷりご紹介します。
ファンの意見も割れる時代に合わせたバレンシアガ
2015年に就任したデムナ・ヴァザリア
出展:VOGUE JAPAN
ちょっとゴシップのようなお話ですが、バレンシアガは初代クチュリエのバレンシアガの時代から、歴代デザイナーによってブランドの路線が大きく変貌します。
ざっくりお伝えすると2代目デザイナーのジョセフュス・メルキオール・ティミスター(1992年~1995年担当)は目を見張るような活躍はなく、落ちてしまったバレンシアガを復活させることはできませんでした。
続いて、1995年~2012年を担当したニコラ・ゲスキエールは、心機一転生まれ変わったバレンシアガで世界中に衝撃を与えることになります。
バレンシアガは2001年にグッチ傘下となるのですが、これはグッチがバレンシアガというブランドを評価したというよりもニコラ・ゲスキエールの才能を買ったと言った方がしっくりくるくらい新しいバレンシアガを作り上げたのです。
3代目デザイナーのアレキサンダー・ワン(2012年~2015年)は、自身のブランド「アレキサンダー・ワン」でも知られていますね。
この自身のブランドとバレンシアガを兼任しつつ2015年まで活躍することになります。
現在、バレンシアガを牽引するのは2015年に就任したデムナ・ヴァザリアです。
デムナは自身のブランドである「ヴェトモン」を先に立ち上げていて、ここで展開していたラグジュアリーストリートの風をバレンシアガにも取り入れます。
SNS映えするロゴやストリートみの強いバレンシアガが世界のセレブ層、SNS層、ひいては日本の主婦層にまで愛されるきっかけとなった決断でした。
余談ですが・・・
DOW?ファッションライターの私は、つい先日都内のバレンシアガ店舗に足を運んだのですが、当然ながらここにならんでいた洋服やバッグは私自身が昔憧れたニコラ・ゲスキエールの頃のバレンシアガとは全く違っていました。
店員さんとデザイナーの偏移について少しお話をさせていただいたのですが、「バレンシアガは時代の最先端を引っ張るブランドですので、常に進化しております」という言葉にブランド側の想いが垣間見えたようでした。
皆様もぜひ店舗を訪れて、「今」のバレンシアガを感じてみて下さいね。