夢を追い続けた女優ヴィヴィアン・リーの歴史的ファッション

ヴィヴィアン・リーは、1950年代に活躍したイギリスの女優で、歴史に残る美女中の美女と言われています。
ヴィヴィアン・リーと言えば、「風と共に去りぬに出演していた美人女優さんね」と多くの人が答えるほど、劇中のスカーレット・オハラ役がはまっていました。
「風と共に去りぬ」を中心に、ヴィヴィアン・リーが出演した映画に登場するファッションについてご紹介します。

ヴィヴィアン・リーの代表的な映画のファッション

なんといっても1939年に製作された、不朽の名作とも言われる「風と共に去りぬ」の華やかな衣装からは目が離せません。
この映画はアカデミー賞9部門を獲得する大ヒットとなり、ヴィヴィアン・リーも主演女優賞を受賞しました。
作者はマーガレット・ミッチェルで、舞台は奴隷制度が残る1860年代の南北戦争の頃になります。
作者のミッチェルは、戦争を「風」に例えています。
「当時絶好調であった南部の貴族的な暮らしは、風のように去ってしまった」ことをタイトルに込めているようです。
ファッションを振り返ってみた時に、歴史上でも貴族的で華やかなファッションは、この時代にピークを迎えています。
日本での貴族社会のピークは源氏物語にも描かれた平安時代でしたが、雅な十二単と1860年代の華やかなドレスは、共通するものがあります。

出典:http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part5/newpage1.html

「風と共に去りぬ」でヴィヴィアン・リーが演じたスカーレット・オハラは女優としての活躍だけでなく、ファッション界にも衝撃を与えました。この映画で身にまとっていたスカーレット・オハラスタイルと言われるのがクリノリンスタイルです。
クリノリンスタイルとは、19世紀中ごろにスカートを広げるために考案されたアンダー・スカートのことです。
堅い布地に鯨のひげなどをつけて張りを出したもので、スカートをかごの形のようなシルエットに保ちました。
コルセットを装着してウエストを細く整えた上に、ボリュームのあるスカートを作り出すことで、よりスタイルの良さを強調したファッションが、この時代の上流階級の女性の衣装の特長です。

「風と共に去りぬ」に登場する衣装の中でも、ホワイトドレスとグリーンドレスは印象的です。
ホワイトドレスは、スカートが大きく広がり、袖のパフスリーブが優雅です。
ウエストの赤いベルトと同じ、赤いリボンに赤い靴、首元の赤いブローチと、赤がポイントとなっています。
もう一つのグリーンフローラルドレスは、グリーンの草模様がプリントされたドレスです。グリーンのサッシュベルト、グリーンのヘアリボンや帽子にあしらわれたグリーンのリボンが爽やかな印象を与えます。また、ポイントのゴールドのイヤリングが素敵です。
この時代はコルセットが必須の時代で、貴族階級とも言われる富裕層の女性たちは、いかにウエストラインを細く見せるかを競って装いました。
しかし、第一次世界大戦(1914~1918)が終わるころから、この華麗なファッションは下火となり、女性たちはコルセットから解放されました。

出典:http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part5/newpage1.html

「哀愁」は1940年に製作されました。
舞台は、第一次世界大戦下のロンドンです。
空襲警報が鳴り響く中、ウォータールー橋で出会った英国将校のクローニンとバレエの踊り子マイラの物語です。
哀愁のファッションで、だれもが惹かれたのは、シンプルなトレンチコート(雨コート)とレインハットでした。
雨の中で抱き合う二人のコート姿は、1940年代を代表するファッションともいえます。
トレンチコートは、もともと第一次世界大戦中のイギリス軍の服装から生まれた男前のファッションですが、時代を経た現在でも、男性だけでなく、男前の女性にも愛されています。もちろん、かわいい系の好きな女性もトレンチコートの愛用者は多く、男女の性別や年齢を超えた不滅のファッションとなりました。

出典:http://cinepara.iinaa.net/A_Streetcar_Named_Desire.html

「欲望という名の電車」は1951年に制作されました。
テネシー・ウィリアムズ原作の舞台劇を映画化したもので、夫に先立たれた女性が、妹夫婦のもとに身を寄せて、人生を模索するといった内容です。
「欲望という名の電車」で、ヴィヴィアン・リーは、2度目のアカデミー主演女優賞を獲得しています。
この映画で、Tシャツの人気に火が付き、下着感覚のTシャツが若者ファッションとしての位置を獲得しました。
男性だけでなく女性にも広がり、現代ではTシャツは脇役ではなくコーデの主役級となっています。
Tシャツ文化の起源となったのは、この「欲望という名の電車」ではないかとも言われています。

ヴィヴィアン・リーの生涯

ヴィヴィアン・リーは、1913年にインドのダージリンで裕福な家庭に生まれました。
母親の娘をイギリス本国で教育を受けさせたいとの希望から、6歳のときにロンドンに近い修道院の寄宿学校に入学しました。
18歳でイギリスの王立演劇アカデミーに入学し、19歳の時に弁護士のハーバート・リー・ホルマンと結婚しました。

出典:http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part5/newpage1.html

子どもにも恵まれ、幸せな結婚生活を手に入れたものの、彼女は女優になる夢を捨てきれませんでした。
ヴィヴィアンが子どもと家庭に身を捧げるには、あまりにも若くて美しすぎると考えた夫は、彼女が映画に出演することを認めました。
ヴィヴィアン・リーは1934年に端役で映画デビューしました。
その後、1937年の「無敵艦隊」で、イギリス演劇界のホープとして注目されていたローレンス・オリビエと共演し、お互いに家族がありながらも二人は恋に落ち、家庭を捨てて再婚します。
ところが、ヴィヴィアン・リーとローレンス・オリビエの結婚は、1958年頃には破綻しており、1960年に離婚することになります。
その後、ヴィヴィアン・リーの精神状態を理解していた俳優ジョン・メリヴェールと一緒に暮らすことになりますが、1967年7月7日の夜にヴィヴィアン・リーは帰らぬ人となりました。

ヴィヴィアン・リーの素顔

1953年にローレンス・オリヴィエと一緒に空港で撮られた、おしやれなファーコートを着てサングラスをかけた、幸せそうなヴィヴィアン・リーは、その後数年で離婚することになります。

関わりを持った男性に深く愛されたヴィヴィアン・リーは不幸ではなかった

ヴィヴィアン・リーは、1946年公開の映画「シーザーとクレオパトラ」の撮影中に転倒し、ローレンス・オリビエとの子どもを流産した精神的なショックからか、彼女は躁うつ病に悩まされるようになります。
ローレンス・オリビエはヴィヴィアン・リーを献身的に看護し、世間には病のことを隠していました。
ところが、映画「巨像の道」の撮影中に、ヴィヴィアン・リーの病は多くの人に知られることとなり、結局二人は結婚生活にピリオドを打っことになります。
その後、ヴィヴィアン・リーは俳優のジャック・メリベールと同居するようになります。
彼の大きな包容力に包まれて、ヴィヴィアン・リーは次第に回復していきます。
「ヴィヴィアン・リーは奔放な生き方をして精神を患い、この世を去った」といった内容の記事もありますが、最初の夫弁護士のハーバート・リー・ホルマンは、彼女の才能を認め、デビューの後押しをしてくれました。
二番目の夫ローレンス・オリヴィエとは辛い別れであったものの、彼女の訃報をジャック・メリベールから聞き、一番に駆けつけたのはローレンス・オリヴィエでした。
ローレンス・オリヴィエは離婚後もヴィヴィアン・リーを支えてくれているジャック・メリベールに感謝し、彼と連絡も取っていたようです。
彼女を愛した3人の男性たちは、ヴィヴィアン・リーの美貌に惹かれただけではなく、彼女の芯の強さの中にある弱さやもろさを、支えてあげたいといった父性的な愛があったようです。

夢を諦めなかった真の女優

ヴィヴィアン・リーは富豪の娘とは言え、6歳から親元を離れ生きてきた彼女は、自分という軸をしっかり持った女優だったようです。
現代の女性の正装の原点は「風と共に去りぬ」のウエストを強調したファッションにあるとも言われています。
「ユルラク」ファッションに慣れた現代女性も、たまにはウエストラインを強調するドレスを着て、スカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーのように、変身してみませんか。