東ローマ帝国から始まった新たな洋服の歴史と、仕立て屋ギルドの誕生
教皇シルヴェスターとビザンツ帝国コンスタンティヌス大帝 参照:http://pietro.music.coocan.jp/storia/storia_bisanzio1.html
前回はローマ帝国とエジプト文明の服装と、服づくりに携わる人々をご紹介しました。第2弾では、多彩に進化していったヨーロッパの服装と、職業としての「仕立て屋」が発展していった歴史についてご紹介していきましょう。
異文化を取り入れた豪華絢爛な服装~ビザンツ様式~
ローマ帝国は4世紀ころ、東西に分裂してしまいました。分裂をしても強い勢力を維持していたのが、東ローマ帝国です。キリスト教を国教として、歴史上はビザンツ帝国とも言われています。当時大きな勢力を持っていた同国の服装は服飾史において、非常に重要な時代です。
前回ご紹介した、ローマ帝国で男子の正装として普及していた一枚布の衣装である「トガ」は、6世紀ころには存在しなくなっています。それに変わり権威の象徴として、身分の高い人が身につけるたのが、「パルダメントゥム」というマントでした。ビザンツ様式と言われる衣服のの特徴は、このマントなどに刺繍や宝石などをあしらう、豪華なものでした。
一般庶民はダルマティカを着用
東ローマ帝国の一般庶民は、肌着用のチュニックの上に「ダルマティカ」というゆったりとしたチュニックの1種を着ていたと言われています。男性は短めで女性は少し長めだったと考えられます。ダルマティカはキリスト教徒たちが着ていたもので、キリスト教の迫害されていた時代に連帯感を示す意味もあったようです。
東ローマ帝国では、キリスト教を国教としていましたので、この衣装が推奨されたようです。このダルマティカは当時西ヨーロッパでも流行して、現代においても、カトリック教会の儀式では着用されています。
異文化テイストを取り入れた上流階級の服装
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東ローマ帝国時代には、エジプトやペルシアなどの異文化が流入し、宝石や金糸を使った刺繍など、豪華な服装が流行していました。また、ローマ帝国時代には下品だと認識されていた、ゲルマン人がよく着る「ズボン」型のデザインも、この時代には盛んに取り入れられていきました。
基本的には、刺繍を施したウール製の「パルダメントゥム」というマントを右肩にブローチなどで留めて着用、さらに正式な儀式では「ロームル」と言う装飾を施した帯を肩から掛けます。皇帝は、ペルシアで染色された緋色の衣装を身にまとっていたと言われています。
上流階級の女性では、イヤリングや指輪、ネックレスなど金や宝石で出来た装飾品を多く身につけていました。総じてビザンツ様式は、ローマ時代と比較して異文化の流行を取り入れながら豪華に着飾る傾向が見られます。服を製作する人たちも、現在と同様、かなり流行に敏感になっていたと思われます。
文化の流入が激しくなる時代にデザイン性が豊かに~ロマネスク様式~
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10世紀から12世紀ころにかけては、西ヨーロッパでも服装の変化が見られます。ゲルマン人の大移動により、文化が混ざり合い、また、11世紀に入ると十字軍の遠征によって中東文化やビザンツ文化の流入が激しくなります。素材も木綿やウール、サテンなど多様化し、腰紐でシルエットを工夫するなど、優美なデザインの服装が広まりました。このようなスタイルは「ローマの様式」のようだったため、「ロマネスク様式」と呼ばれるようになっています。
一般庶民はまだシンプルな服装
仕立て屋という職業は存在し、さまざまに工夫をこらしたデザインの洋服がこの時代にも多くありましたが、一般庶民には手が出ないほど高価だったといいます。多くの庶民は麻の肌着にウールのチュニックを着用していたと思われます。多くの人は古着などをリサイクルして活用していました。
上流階級では、「ブリオー」が登場
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上流階級の人々は、衿などに刺繍を施した麻の下着に、麻でできた現在の長ズボンのような「ブレー」を履いて、「ブリオー」という長めのワンピースのような衣服を男女とも身につけていました(女性はブレーを履かない)。
ブリオーは、中世の騎士も着用していたと考えられていて、素材は外国から輸入をした高価なシルクなどを使用していたようです。
かなり奇抜なデザインもあった建築物のような衣服~ゴシック様式~
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14世紀から15世紀にかけて、ルネサンスがまだ大きなムブメントにはなっていない時代です。この頃のファッションは、中世ヨーロッパの代表的な様式「ゴシック様式」が最盛期になっています。色使いも大胆であり、デザインも奇抜なものが多く見られます。デフォルメされたデザインは、神の元へ届くような壮大な建築物を模しているとの説もあります。
一般庶民はシンプルだが、おしゃれを楽しむ工夫も
この時代も一般庶民は比較的シンプルなチュニックなどを着用していましたが、だぶついているものよりも、身体にピッタリとフィットするものが好まれたといいます。男性では胸や肩にパットを入れてアクセントを楽しんでいたようです。女性では、ワンピースのウエスト部分を腰紐で締める「コルセ」というスタイルが流行していました。
上流階級では、豪華で派手な衣装が流行
上流階級では、「遊び心あふれるスタイル」といえば良いのか、とにかく奇抜なものが多かったようです。ヨーロッパの道化師のような衣装といえばわかりやすいかもしれません。衣装のいたるところに鈴を付けていたり、女性では「ヘッドドレス」という大袈裟な帽子のようなものをかぶることもあったようです。
立体裁断の誕生、仕立て屋のギルドも登場
14世紀に入ると、ヨーロッパの各都市では職人組合である「ギルド」が発達します。ギルドへ直接大量に注文をして、一般市民に販売する商人も多く現れ、市場経済や生産の工業化が進んだ時代でした。
現在で言えばデザイナーも兼ねている、仕立て屋のギルドももちろん存在しており、13世紀に発明された現在の立体裁断の元となる方法を活用して、生産性やデザイン性も大きく向上していきました。商人も次第に財力を蓄えて、各国の貴族に取り入って、ファッション産業の中核となっていきます。
ルネサンスから19世紀にかけて、イタリアとフランスがファッションの中心に
15世紀にはイタリアでルネサンスが大きな潮流となってヨーロッパ全土を覆ってゆきます。ルネサンスの原点であるイタリアはフィレンツェの大商人たちが、その流れを利用してファッション産業を拡大してゆき、イタリアはファッションの中心地となります。また、フランスでもルイ王朝は近代的な王立工場を建設。次第にファッション業界で中心的な役割を果たしていくようになります。現在でもファッションの中心として知られるこの2つの国は、この頃からファッション産業に力を入れていたと言えるでしょう。
バロックロココなど、貴族文化が花開く
参照:https://kaigablog.com/dress-middle-ages/#toc9
16世紀にはスペイン帝国が台頭し、ファッションの世界でもその文化である重厚なバロック様式が主流になっていきます。シックでありながら、装飾が多いスタイルです。この頃から男性は「アロンジュ」というかつらを被るようになります。イメージとしては、バッハなどこの時代の作曲家たちの肖像画のような感じです。
17世紀に入ると、スペイン帝国は没落し、フランスが台頭していきます。そして、ファッションの中心もイタリアに加えてルイ王朝が工場などを建設していたフランスへと移るのです。
そして、18世紀ころからは「ロココスタイル」が確立、コルセットを使用した細いウエスト、胸元の広く開いたドレスなど、華麗なる貴族文化が花開く時代となっていきます。
ミシンの発明と洋裁店の台頭
1790年頃のミシン(再現品) 参照:https://misinkan.com/history/hiseur.htm
18世紀になると、ミシンが発明され、仕立て屋の生産性は大きく向上します。また、貴族文化が盛んになり、着飾る機会が多くなった上流階級の人々から、洋裁店は多くの注文を受けるようになりました。
まだ、ファッションデザイナーといった概念はなかったと思いますが、実質的には顧客の要望を聞き、それを衣服という形に仕立てていくのですから、現在のファッションデザイナーと同じと言っても良いでしょう。
洋裁店は主に貴族の衣装を製作する店が大きく台頭していきます。そして、この後の産業革命を迎えると、さらに衣服の生産性は向上し、低価格となります。その結果、今までは家庭内で衣服を製作していた一般庶民も、既製服や簡単な注文服を利用するようになって、さらに服飾業界は発展していきます。
次回はファッションデザイナーが登場し、次第に活躍していく産業革命から近代の歴史をご紹介します。