ファッションデザイナーの歴史~世界編③~

フランス革命とオートクチュールの誕生


ベルサイユ宮殿 参照:https://www.travelbook.co.jp/topic/2988

「ファッションデザイナーの歴史」、今回は3回目となります。18世紀からは、フランスやイタリアなどで生地生産や仕立て業が盛んになります。特にフランスでは、王侯貴族がドレスの美しさを競うようになり、世界的にもファッションの中心地として認められました。その地位は、19世紀に入る直前にフランス革命によって、政治体制が大きく変化をしても変わることはなく、むしろ現在の「オートクチュール」という制度を誕生させて、世界に「ファッションデザイナー」という職業を認知させたのです。

マリー・アントワネットは女性の憧れだった


マリー・アントワネット 参照:http://meiga.shop-pro.jp/?pid=146460525

前回の後半でご紹介したように、スペイン帝国の衰退により台頭してきたフランスのルイ王朝は、18世紀に栄華を極めます。ミシンの発明により、服飾産業に投資をしてきた見返りもあり、財政は潤っていたと考えられます。しかし、実際にその恩恵を受けていたのは、王室と貴族、そして一部の聖職者のみだったのです。
富は王室や貴族に集中して、この時代の王室ファッションは、非常に華美なものでした。女性の美しさを強調するために、ウエストはコルセットによって締め上げ、ボトムのスカートはバニエという木材やクジラの髭などでできた骨組みで膨らますことが流行していました。そして、このファッションを、多くの方がイメージしやすい人物と言えば、フランス王国最後の王妃である、マリー・アントワネットです。
彼女の華麗なファッションは、その美しさとともに、貴族の間だけではなく、一般市民にも知れ渡り、着こなしを真似る憧れの存在だったと言われています。このように、当時のファッションは王室や貴族たちが中心となり、トレンドをつくり出していったと考えられています。
しかし、ファッションとは別に、夫であるルイ16世の政治体制と、自身の言動などにより、不幸にも民衆の心が王室から離れていくきっかけとなります。もちろん、ルイ16世とマリー・アントワネットだけの問題ではなく、長年に渡る王政の歪みが根底にあるのも事実です。
フランス王室は、「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、絶対君主制でした。また、それを理論化するために、聖職者も取り込み「王権神授説」を唱えて、一般市民を治めてきました。さらに富が王室や貴族などに集中してしまい、一般市民の不満は蓄積、1789年から1795年にかけて、フランス革命が起こります。

フランス革命とコルセットとバニエの衰退


参照:https://www.spintheearth.net/french_revolution/

フランス革命に勝利をした民衆は、「資本主義」を掲げ、フランスの近代化は一気に進展することになります。法の元の平等を保証し、人権を権利として認めた国家が誕生したのです。
この大きな変革は、ファッションのトレンドにも変化を与えます。王室主義への反発や、人工的な造形美への反動から、華美なドレススタイルは避けられるようになりました。コルセットやバニエは衰退していき、綿を使用した「シュミーズ・ドレス」という簡素なドレスが流行しました。このスタイルは、フランス革命以前から存在していましたが、革命後には爆発的に流行したといいます。

コルセットへの回帰とオートクチュールの誕生


ロマンチックスタイル 参照:wiki3.jp/dress-kaiga/page/18

前述した「シュミーズ・ドレス」のブームは、20年ほど継続しますが、その後は、コルセットがが復権していきます。現代と同様に、ファッショントレンドは、社会情勢によって変化していくものです。このときにヨーロッパで大きなトレンドとなっていたのが「ロマン主義」です。
ロマン主義とは、18世紀後半から19世紀にかけての思想で、古典主義に反抗して、感情や個性などを尊重する考え方です。フランスにおけるこの思想は、女性の美しさや女性らしさを追求するとされ、コルセットで絞ったウエストに釣鐘型のスカートという「ロマンチックスタイル」が流行していきます。
この頃になると、ナポレオンによる統治で革命後の混乱も落ち着き、イギリスからはじまった産業革命の波によって、数々の革新技術も生まれるようになります。そして、ファッション界でも歴史上、非常に大きな出来事が起こります。「オートクチュール」の誕生です。

19世紀初頭までの服づくり

このシリーズでご紹介してきたように、紀元前から洋服を仕立てる仕事はありました。ただ、19世紀初頭まで、一般市民は主に安価な既製服か古着、あるいは家庭内で仕立てた洋服を身に着けていました。
一方で、少し裕福な人が洋服を仕立ててもらう場合は大変です。服飾業の多くは分業制であり、生地を作る業者、装飾品の業者、仕立てをする業者など別々に存在していました。そのため、発注者は自分でそれぞれのところで集めて、仕立て屋に依頼、そこから仕立て屋がお針子に縫製を依頼するといったシステムでした。
当時は、これがごく当然のことでしたが、それを大きく変革した人物がいます。その人物こそ、「最初のファッションデザイナー」とも言われる、シャルル・フレデリック・ウォルトです。

最初のファッションデザイナー、シャルル・フレデリック・ウォルト


シャルル・フレデリック・ウォルト 参照:https://www.laprairie.com/ja-jp/editorials-article?cid=haute-couture

19世紀の半ばに、現在の「オートクチュール」の基になるシステムを築き上げたのが、シャルル・フレデリック・ウォルトです。彼は、従来分業制だった服飾に携わる仕事を統括的に運用して、効率的に服を製作するシステムをつくりあげました。また、その恩恵は業界のみならず、顧客に対しても「どのようなデザインの服なのかわかりやすい」「製作までの期間が短縮される」などのメリットを感じられるようにしました。そして、「ファッションデザイナー」という概念を世間に広く示したとも言われています。

ナポレオンの妻や王室からも愛されたドレス

シャルル・フレデリック・ウォルトは1825年、イギリス生まれで、1846年にはパリに移り住みます。パリでのウォルトは、有名なガシュランという生地店に販売助手として働き始めます。そこで、徐々に才能を発揮したウォルトは、デザイナーとして注目され始めて、1858年には独立を果たしました。
ウォルトのメゾンは、すぐに人気となります。メゾン開業から、わずか2年後には、当時のフランス皇帝であるナポレオン3世の妻、ウジェニー皇后も顧客になったほどです。ウジェニー皇后は、ウォルトのことを非常に気に入り、イブニングドレス、宮廷服、仮面舞踏会の注文を一手に発注をしていました。
また、当時のパリはファッションの中心としての地位を確立していましたから、多くの外国人もウォルトに洋服を発注しています。そのなかには、オーストリアのエリザベート皇后など、周辺国の王室も含まれています。そして、彼の人気は上流階級や貴族だけではなく、当時の芸能分野で中心的な存在であった舞台女優や、オペラ歌手たちにも及びます。サラ・ベルナールや、ジェニー・リンドなどの有名人も、こぞってウォルトのメゾンに洋服を発注したのです。

斬新なアイデアを次々と繰り出したオートクチュールの元祖

ウォルトのメゾンが成功した背景には、当時流行していた、「ロマンチックスタイル」を取り入れたデザインが好評だったこともありますが、既存のシステムにとらわれない改革をおこなったからだと言われています。
それまでの仕立て屋は、顧客の家に行き、採寸をしたり、デザインの要望を聞いたりするのが普通でした。しかし、ウォルトはそれを逆転させ、顧客がメゾンに来てもらうようにしたのです。そして、メゾンには、自社で製作したドレスなどを着用した従業員を配置しており、現在のファッションショーのように着こなしなどを披露していました。顧客はメゾンに出入りすることで、さまざまなドレスを見ることができたため、メゾンへ頻繁に出入りするようになったといいます。この、自社製ドレスを従業員に着用させることは、ファッションショーの先駆けともなっているのです。
顧客がメゾンに来るというシステムをつくったことによって、ウォルトのようなデザイナーは、自分のメゾンで生地の選択からデザインや縫製などを管理できるため、効率の良い生産が実現しました。これが、現在も続くオートクチュールの始まりとなりました。

歴史の苦難も乗り越えてファッションデザイナーの地位を確立


ボディスをドレーピングしている作業中のウォルト店(パリにて1907年) 参照:https://mode21.com/charles-frederick-worth/

順調に運営されていたウォルトのメゾンですが、1870年に勃発したフランスとプロセイン王国(現在のドイツ北部からポーランドにかけてあった王国)との戦争により、危機に瀕してしまいます。ナポレオン3世が捕虜となり、フランスの帝政は崩壊、ウジェニー皇后など帝政の後ろ盾がなくなってしまったのです。
パリにはウォルトの影響で、彼と同じようなシステムでメゾンを経営するファッションデザイナーも増えていましたが、戦争の影響によって、ウォルトと同様に経営危機となりました。
ただ、イギリス出身であるウォルトは、英語力を活かして、イギリスやアメリカに活路を見出します。1880年代の後半には、季節ごとのコレクション発表や広告を使用したイメージ戦略など、新しいことに挑戦していきます。
ウォルトは、帝政という後ろ盾を失った後も、斬新なアイデアで大きく躍進を続けました。逆に言えば、帝政との関係がなくなったことで、庶民の顧客が増加し、自らがファッションデザイナーとしてデザインを主張していく、「流行をつくる」立場になったとも言えます。
彼のアパレル業界に対するシステム改革は、非常に斬新で素晴らしいものです。ただ、それ以上に、初めてファッションデザイナーとして流行を牽引する立場を築いたことこそ、最も大きな功績だったとの評価もあります。
1895年、20世紀になる直前にウォルトは肺炎で亡くなります。ただ、彼がアパレル業界でおこなった数々の改革は、20世紀の名デザイナーたちに引き継がれていきます。
次回は、20世紀前半におけるデザイナーの歴史を見ていきましょう。